« NESARAとは何か | トップページ | 今日、庭の梅の花が開花しました »

世相のウラを読む(194)心を開くという事(再掲記事)

 以下の文章は2007.10.3に配信した私のメールマガジンの記事を再掲します。サブタイトルで、「人間はなぜテレパシーの能力を失ったか」、としてあります。この文章は、私自身の体験を基にして当時興味をもって読んでいた書籍とテレビ番組に触発されて書いたものです。ちょっと長いですが全文(一部終末をカットして)再掲します。

 私は今、非常に示唆に富んだ本を手にしています。デヴィッド・R・ホーキンズ博士というアメリカの精神科医の書いた「パワーかフォースか」(三五館・刊)という本です。この本は世界各国でベストセラーになり、話題になっています。なぜかというと、人間の心という実につかみどころのない、やっかいなものを、見事に、かつ驚くような深さで、そして信じられないような可能性をも併せて記述しているからです。この本の訳者の一人、エハン・デラヴィ氏は冒頭でこう述べています。「ホーキンズ博士は科学として認められているキネシオロジーテストに基づいて、人間の意識から物質に至るまで、この世の中のすべてを、さまざまなレベルを示す数値で的確に測定する方法を提供してくれます。これらは何万回となくテストされ科学的に立証されたデータから生まれたものです」

 さて、目は口ほどにものを言い、といわれます。このように人間同士が意志を伝え合う手段は、何もことばだけではありません。恋人同士が互いに眼をみつめ、手を取り合って向かい合う時、野暮なことばは必要ありません。二人の間には、まるで電流のような目に見えない心の流れが起っています。

 そうです。今回はテレパシーの話なのですが、いきなり「テレパシー」などというと、ほとんどの人は、何だ、オカルトの話しか、と引いてしまいます。が、そんな事はいらぬご用心です。先ほども触れたように人間はことば以外にも常にさまざまな眼に見えない方法で意志の疎通を図っている現実があるからです。別な表現でいうと、胸襟を開く、心を開く、という事ですが、親しい人間同士ですと、何もいわなくてもそこに居るだけで何となく考えている事が分る、理解できるといいます。これも一種のテレパシーといえるでしょう。

 とはいっても、いざ「テレパシー」というとほとんどの人は、そんなものはあり得ない、と否定しがちです。そうではありません。昔から「以心伝心」といって、ことばでなくても意志を伝え合う手段はあったのです。以心伝心とは正確には禅宗で師が弟子に、ことばや文字ではなく、直接心から心へを伝える事をいいます。という事は「テレパシー」は昔から現実に存在したし、修行さえすれば誰でもできることであり、現代に伝わってきている、というのがその証拠です。

 ここで、私はもう一歩進んで、人間は生来テレパシー能力を持っていた、と考えています。それには理由があります。私には、ある生々しい体験があるからです。私は15歳の夏、高校一年生時に、頼りにしていた6歳年上の兄を交通事故で亡くしました。その事故は私の家から遠く離れた山口県の彦島という所で起りました。あの有名な巌流島の近くです。7月29日の午前9時ころだったそうです。ちょうどその頃私は高校の夏の補習を受けるため、照りつける陽射しの中を兄の残して行った自転車をこいで学校へ向かっていました。そのとき、突然何ともいえない悪寒が身体を走り抜け、身体を引きちぎられるような堪え難い苦悶を感じました。その何ともいえない苦悶の感覚は2時間も続き、とても補習を受けられる精神状態ではなくなり、やっとの思いで昼前に家に戻りました。すると近所の人が駆け寄ってきて、兄の事故を知らせてくれたのです。まさに私が悪寒を感じたその時間に、兄はバスの後輪で身体の真ん中を轢かれ、まるで身体が二つに引き裂かれたような状態で2時間生き続けていたそうです。

 この後、信じ難い偶然の暗合が起きます。私はそれから約30年後、どうしても兄が事故に遭った場所を見て置かなければいけないと思い、現場を訪れました。下関駅に着いて用を済ませた後、来合わせたタクシーに乗りました。彦島は下関駅のすぐ前です。運転手に現場の模様を説明し、その場所へ案内をしてくれるように頼んだのです。そして、私は仰天しました。なんと乗ったタクシーの運転手が30年前の事故と場所を知っていたのです。事故の現場は海水浴場の傍で、人が混み合う海岸端でしたが、今では開発が進んで当時とは様子がまったく変わっていました。もし、運転手が事故を知っていなければ、到底その場所に行く事はできなかったでしょう。なんという偶然の暗合でしょうか。

 話しは変わりますが、数日前(2007年当時の)NHKの解体新書という番組を見ておりましたら、ハッとする事を放映していました。ある学者が、本来人間の声帯というものは門のような構造になっており、肺に水が入るのを防ぐ役割のある器官だった、というのです。という事は、学問的な考察は省きますが、人間の声帯はもともと音声を発するために有ったのではない、言い換えればことばを発するための器官ではなかった、という事です。これを突き詰めれば本来人間はことばを発して意志の疎通を図ったのではなかった、ということになります。(動物は種族間で意志の疎通が図れなければ種として集団活動が不可能で、自然界の厳しい生存競争を生き残れない)

 これに関してヒントになる事が今度は民放で放映されました。外国から招かれた霊能力者が動物とテレパシーで意志の交換をやり、その動物が悩んでいる問題を解決してやる、という設定の番組でした。見られた方も多いと思いますが、どうもヤラセではなさそうです。とすると、動物、いや生き物はすべて普遍的にテレパシーの能力が備わっている可能性があるように思われます。

 私はここからが今回言いたかったことなのですが、人間はもともとテレパシーの能力が備わっていたのではなかったのか、という疑問なのです。だとすると、それがなぜ失われたのでしょうか。その事を理解するためには、ひとつの想像力を働かせる必要があります。仮に人間にテレパシーの能力が、いまあるとします。するとどうなるでしょうか。すぐわかるのは、相手の考えている事が手に取るように分かってしまうということです。「あ、こいつはイヤな奴だ」、「こいつを騙して持っているカネを巻き上げてやろう」、あいつはこんな事を考えている、ウラをかいてやれ」、というふうになります。マージャンやポーカーなどは心理を読むゲームですが、テレパシーがあればゲームとしては成り立ちません。むろん、犯罪や悪事はたちどころに見破られて、考える事すらできません。

 ところが、よく考えてみますと、人間の心の働きというのは一種のエネルギー活動です。エネルギーというのは波動です。ですから、ブロックしたりシールドしたりできる訳です。つまり、思考が外に漏れないように隠してしまえるのです。このことはある種の訓練によって普通にできるようになりますが、テレパシーで成り立っていた社会で心を包み隠す手法を確立してしまうと、隠した人間だけが得をすることになりますから、あっ、という間に心を隠す手法が広まり、すべての人がそうするようになるでしょう。しかし、別の何かの手法で意志の伝達を図らなければ集団生活が営めませんから、文字や音声で伝えることばが表面に出てきました。こうして言語に頼る文明が発達するようになりました。これが人間の堕落の原因です。なぜなら、邪悪なこころさえ持たなければ、自らの心を閉じ込め他人とのバリアーを作る必要はなかったからです。これから人間の心の分離と孤立化が始まったといえるのです。…以下省略

|

« NESARAとは何か | トップページ | 今日、庭の梅の花が開花しました »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1217756/33363039

この記事へのトラックバック一覧です: 世相のウラを読む(194)心を開くという事(再掲記事):

« NESARAとは何か | トップページ | 今日、庭の梅の花が開花しました »