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1918年スペイン風邪パンデミックの真の原因

 今日、まぐまぐ無料メールマガジンで大変驚くべき情報がもたらされました。それはこのメールマガジンの執筆者、原田和明氏の記事で、今年10月12日付ニューヨークタイムス紙に、「1918年のパンデミック もう一つの容疑者はアスピリン」という記事が掲載された事を伝えていたからです。

 スペイン風邪による大量死亡者発生の原因は解熱剤アスピリンではないか、と疑っていたのは浜六郎医師一人ではなかった、と解説しています。実は私もアスピリンの薬害(副作用)を受けたという事は、以前のブログ記事でご紹介しました。そのとき、私はインフルエンザ症状とアスピリンによる私の鼻出血とは直接関係は無い、という意味のことを書きました。

 ですが、後でさまざまな文献と書籍を調べているうち、スペイン風邪パンデミックのとき、若い兵士を中心にアスピリンを解熱薬として服用後、大量の鼻出血を起こして死亡する者が続出した、という記述を読んで驚いたのです。

 ニューヨークタイムスの記事は日本のマスコミではほとんど紹介されていない、と原田氏は書いています。この無料メルマガには原田氏が概要を紹介されていますので、この私のブログ記事の最後に原田氏の記事をコピーして貼り付けて置きます。参考にしてください。

 問題は、現在の新型インフルエンザ対策にも同じ危険が存在しているという事です。その疑いは、浜医師も指摘しているように、スペイン風邪を教科書として、最初からタミフルの副作用を利用してパンデミックを演出するというシナリオがあったのではないか、という疑惑です。これは大変な告発です。実は私も自分の体験からその疑惑は真実ではないか、と思っています。

 皆さんは、現在も続けられている新型インフルエンザの危険性を煽るマスメディアの報道を目にするとき、その事に思いを巡らせてください。すべては役所、医師、製薬会社、マスメディアがグルになって情報操作を行っている疑いが濃いという事を。

第24回 スペインかぜの正体(3)                          原田 和明

今年10月12日付ニューヨークタイムス紙に、「1918年のパンデミック もう一人の容疑者はアスピリン」という記事が掲載されました。カリフォルニア州バーリンゲムの内科医・Karen M Starko博士は、アメリカ小児科学会誌に、ライ症候群とアスピリンの使用を関連付けた研究結果をこれまで何度も投稿していますが、今度は11月1日に スペインかぜの大流行ではアスピリンの過剰投与が大勢の死につながったという可能性に言及した論文を発表するとのことです。スペインかぜの原因に解熱剤アスピリンを疑っていたのは浜医師一人ではありませんでした。

1976年の豚インフルエンザ騒動が 死者わずか1名で、1918年のスペインかぜでは、アスピリンの過剰投与が大量死の原因だったかもしれないとなると、それ
らの末裔であると考えられている今年の豚インフルエンザウイルスも当初から言われていたように弱毒性で、何も大騒ぎすることはなかったということにもなりかねません。「特効薬で重症化」のオリジナルはスペインかぜにあったとなれば、今年の新型インフルエンザ騒動では、タミフルの投与が重症化の原因かもしれないとの疑念にとどまらず、スペインかぜを教科書として、最初からタミフルの副作用を利用してパンデミックを演出するとのシナリオがあったのではないかとの疑いがでてきます。

ニューヨークタイムス紙の記事は日本のマスコミではまったく紹介されていないようなので、概要を紹介します。

ニューヨークタイムス紙は、Starko博士がアスピリン原因説を証明するための検死報告書やその他論文をもっているわけではないとしながらも、「アスピリンの過剰投与」という博士の視点は、いくつかの歴史的事実にかんがみて卓越していると賞賛しています。

当時のアスピリンのパッケージには服用量や毒性についての注意書きはありま
せんでした。そして、スペインかぜのパンデミックに際し、アメリカ海軍はアスピリンの服用を推奨し、海軍はアスピリンを大量に購入しました。そして、標準的なアスピリンの服用量に対して25倍もの量を服用するよう勧めていたのです。

今年11月1日に発行の学会誌「感染症問題」に掲載されるStarko博士の論文は、専門家の間で強く支持されるというわけではありませんが、関心を呼んでいます。「Great Influenza」の著者ジョン・M・バリーは「その論文は独創的で、よい問題提起をしていると思います。ただし、どれくらいの人々が博士のいうような過剰投与を受けたのかは知る由もない。」とコメントしています。

テネシー大学薬学部のPeter A. Chyka教授は、「Starko博士の理論には興味を
そそられる。その当時、安全な投与量がどれくらいかほとんど知られていなかった。医者は患者に毒性のサインが現れるまで単純に投与量を増やしてしまうことがたびたびある。治療薬が病気を重症化させるという組み合わせは、ほかにもあるはずだ。(※筆者注:タミフルのこと?)」とコメントしています。

国立衛生研究所の伝染病学者 David M. Morens博士は、「ウイルスの仕業だけ
では、当時の若者の大量死を説明しきれない。Starko博士の論文は、スペイン
かぜの主要な原因を検証するきっかけになる。」とコメントしています。

Starko博士は、アスピリンの過剰投与でどのくらいの人が死んだのか推計して
はいませんが、「軍の書蔵庫を調べるなど、誰かにフォローアップしてほしい」
と言っています。(記事の紹介終わり)

浜六郎医師は当時の記録と、ライ症候群の疫学調査および動物実験の結果から、スペインかぜで死亡したとされる人の実に 85~97% はアスピリンの影響だと推計しています。(浜六郎「やっぱり危ないタミフル・突然死の恐怖」金曜日
2008)

1921年の文献によれば、一般市民の治療の場合、アスピリン不使用では 575名中死亡は 1名(死亡率0.17%)に対し、アスピリンが用いられた大学病院では
294名中15名が死亡(同5.1%)でした。この場合、アスピリン使用群の死亡の
危険度は約30倍。一方軍隊では、アスピリン使用群では 325名中 20%が死亡、アスピリン不使用群では3%未満で、この場合の死亡危険度は約8倍となります。この数値はライ症候群での疫学調査による死亡危険度(10-50倍)や 動物実験での死亡危険度(約10倍)とほぼ同じでした。この結果から 浜は、死者の9割はアスピリンの投与によると推算したのです。当時アスピリンの過剰投与があったとすれば、その割合はさらに高くなるかもしれません。

前回、「残念ながら当時どのくらいの量のアスピリンを服用するように推奨していたのかはわかりませんでした。」と書きましたが、ニューヨークタイムス紙の記事には、当時の使用量が掲載されていました。

当時のアメリカ医師会は、通常24時間にアスピリン錠剤1粒(325mg)を服用するところ、スペインかぜの流行時には3時間毎に1000mg(=1g)の服用を推奨していたとのことです。これは今日 安全とされている服用量の2倍にもなります。(2009.10.12ニューヨークタイムス)

ところで、厚労省のマニュアルによれば、アスピリン肺水腫が起きる血清濃度
が 30mg/dL 以上とされています。血液が体重の約8%、血液中の血清成分は約60%として計算すると、体重60kgの人の場合、血清量は60×0.08×0.6=約3kgとなります。さらに、服用したアスピリンがすべて血清中に移動すると仮定し
た場合、血清濃度が 30mg/dLになるには、900mg(=0.9g)のアスピリンの投与が必要ということになります。これは当時推奨されていた 3時間毎の服用量に匹敵します。実際には服用したアスピリンがすべて血清中に移行するということはないでしょうから、体重60kgの人が1g程度服用した場合に 血清濃度が30mg/dL になるわけではないかもしれませんが、肺水腫を発症しかねないほど
の大量のアスピリンを 3時間毎に繰り返し服用していたのでは、いずれ肺水腫
が起きてもおかしくはなく、大量の死者が発生する可能性はかなり高くなるのではないかと思われます。その際、酸素欠乏により皮膚は青くなるのも特徴のひとつです。当時としては、大流行を食い止めるための措置としてアスピリンを多めに処方したのだと思われますが、それが逆効果になってどんどん事態が深刻化していったために、さらに投与量もエスカレートしていったのかもしれません。

ニューヨークタイムス紙の 記事中に 登場する ジョン・M・バリーが 著した「Great Influenza」(訳:平澤正夫 共同通信社 2005)の冒頭にも、スペインかぜの症状の異常さが紹介されています。海軍少佐(軍医)ポール・ルイスが罹患した水兵たちに対面したときの場面です。(P8より以下引用)

 1918年の半ば、死はいままで見たこともない形で現れた。男たちが数珠つな
ぎになって次々と病棟でルイスと対面することとなった。今まで見たことも
ないすさまじい症例が多く、病人は血にまみれ、瀕死の状態だった。(中略)多くの者に見られる出血は、ほとんどが鼻血で、中には咳き込んで血を吐く水兵もいた。耳から血を流している者もいた。ものすごい咳き込みようだったので、死後、検死解剖してみたら、腹筋があばらの軟骨から離れてしまっている者さえ見られた。その多くが苦悶あるいはうわごとでも言うように七転八倒し、意思疎通のできる者のほとんど全員が、目の後ろの頭蓋骨にくさびを打ち込まれたかのような頭痛と、骨が砕けるかと思うほど激烈な体の痛みを訴えた。少数ながら嘔吐する者もいた。死の間際に、皮膚の色が変わる水兵がいた。唇の周りや指先が青みを帯びているだけなのだが、その色が濃すぎて、白人なのか黒人なのかちょっと見分けがつかないような者さえいた。黒色といってもおかしくなかった。(引用終わり)

皮膚の色が青くなるのは、血液中の酸素不足が原因(チアノーゼ)と見られ、タミフルを投与された インフルエンザ患者にも しばしばみられる症状です。(浜六郎「やっぱり危ないタミフル・突然死の恐怖」金曜日2008)ある軍医は死者の皮膚の変化から「黒死病(ペスト)発生」と報告したとのことです。そのほかにも、インフルエンザや肺炎とは違う 症状に戸惑う 当時の医師たちがたびたび登場します。

「鼻血などの奇妙な症状を伴う肺炎」(P139)「肺の病気は複雑ないし変化に富んでおり、ここ20年間に行なわれた数千という検死解剖でいつも目にしてきたものとは、とにかくかなり性質が異なるという印象を受ける。平年の一般的な気管支肺炎とは異なっていた。」(P140)「ときには、極度の酸素不足から患者はチアノーゼ症状を呈していた。体の一部もしくは全体が青みがかり、ときには濃い藍色に変色しつつあった。」(P141)

そもそも、アスピリンを過剰に服用するようになったのは、当時インフルエンザが流行していたという事実があったからです。スペインかぜの発生地について、ウィキペディア「スペインかぜ」では、「発生源は 1918年3月米国のデトロイトやサウスカロライナ州付近である」とされていますが、ジョン・バリーは1918年春の「アメリカ公衆衛生報告」に掲載された「重症型インフルエンザ」という報告をもとに、スペインかぜは、1918年1月に、カンザス州 ハスケル郡で発生したのち、ウイルスは州を東に横断し、広大な陸軍基地(キャンプ・ファンストン)へと広がり、そこから米軍兵士の移動とともにヨーロッパに渡ったと推測しています。

しかしながら、ハスケル郡の インフルエンザは 1918年3月に終息しています。それにハスケル郡での死亡率は、米国全体と比較してもわずかなものでしかな
かったとのことですので、まだこの時点では、普通のインフルエンザ程度の認識だったと思われます。

それに対し、ハスケル郡に隣接するアメリカ陸軍の訓練基地であるキャンプ・ファンストンで最初の感染爆発があったことがわかっています。キャンプ・ファンストンは平均で5万6千人もの新兵を抱える大きな訓練キャンプですが、アメリカの第一次世界大戦の参戦に合わせて1917年にわずか数週間で急造されたため、施設の建設が間に合わず、わずかな兵舎はすし詰め状態で、多くの兵士はテント暮らしを強いられていました。もちろん医療施設も当初はありませんでした。そこへもってきて、1917年から18年にかけての冬はロッキー山脈東部で観測史上最も寒く、その上、陸軍の報告書では、暖房も防寒衣料も提供できなかったことを認めています。そのため、兵舎では麻疹(はしか)が流行、患者は高熱と光に対する極端な過敏症状と激しい咳に苦しみ、合併症にはひどい下痢、髄膜炎、脳炎、激しい中耳炎、痙攣などがあったとされています。

そこで、陸軍は感染防止の観点から、兵士たちが密集しないようにするため、兵士たちがストーブの周りに集まることを禁止する命令を出して、将校が見回
りをするという信じがたい行動にでました。記録的な寒さの中、防寒衣料もないままテント暮らしを強要された上、ストーブで暖を取ることもできなければ、感染症が蔓延するのは当然のことでしょう。

しかし、それでもキャンプ・ファンストンでは、1918年3月に 1100人あまりの兵士が体調不良を訴え、237人が肺炎と診断され、そのうち死亡者は 38人でした。この数は通常のインフルエンザで見込まれる死亡者数よりも高かったものの、その後のパンデミックで見られた死亡率よりはるかに低いものでしたから(ジョン・M・バリー「Great Influenza」訳:平澤正夫 共同通信社2005)、このときもまだ、異常事態というわけではありません。

インフルエンザが アメリカからヨーロッパへ広がったのは、4月上旬にアメリカ兵が上陸したフランスのブレストからでした。フランス陸軍に続き、中旬にはイギリス軍、下旬には敵国ドイツ軍にもインフルエンザが流行しました。たとえば、イギリス軍は、5月に陸軍第一軍で3万6473人が入院、軽症患者は数万人、第二軍では弾薬隊 145人中15人しか部署につけない、といった状況でしたが、いずれも合併症は見られず、兵士のほぼ全員が回復しています。ここでも、罹患者は多数ですが、症状に関する限り通常のインフルエンザといった感じです。

しかし、ヨーロッパでのインフルエンザの激増が、関心を集めることになりました。当時の医学雑誌には、一般的に良性と書かれていましたが、ことによると、必ずしも良性ではなく、インフルエンザが本当に猛攻を仕掛けてくるようになれば、とてつもなく凶暴なのだという情報も見られるようになっていました。(ジョン・M・バリー「Great Influenza」訳:平澤 正夫 共同 通信 社2005)

そして、スペインかぜの特異性が報告され始めるのもこの頃からです。ある軍の報告には、「湿性の肺出血を伴う劇症肺炎」で「24時間から48時間後に死亡
する」との記載が登場しています。さらに、シカゴ市民の犠牲者を検死解剖したところ、同様の症状を伴う肺が見られた。ケンタッキー州ルイビルでも、インフルエンザの統計に例外現象が現れていました。死亡者が多いだけでなく、死亡者の40%が20-35歳という若者に集中している点です。

インフルエンザの流行が喧伝されるようになって、不安になった人々が特効薬を買い求める。しかし、それが重症化の原因になっているかもしれない…。スペインかぜ騒動は、こうしてみると、今年の豚インフルエンザ騒動と重なるところがたくさんあります。

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コメント

初めまして。まみりんと申します。happy01
お邪魔します。
先日、別のところで風邪薬からアスピリンが(薬害が分かった時点から)排除されるまでに60年ほどかかった。現在はアセトアミノフェンが使われているというような記事を目にしていました。
死者がでていたのは知っていましたが、鼻出血のことは知りませんでした。

とてもいい記事だったので、ケムトレイル気象掲示板でこちらの日記を紹介させていただきました。

ウクライナでもスーパーインフルエンザ(出血を伴う)が流行っているようです。
新聞ではそんな記事見かけませんが、日本でも…
11月の北海道新聞の記事ですが

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/influenza/199445.html

【釧路】釧路保健所は11日、釧路市内の小学4年生の男児(10)が新型インフルエンザに感染し、9日夜に死亡したと発表した。新型インフルエンザによる死者は道内3例目で、最年少。国内の死者は、疑いを含め58人となった。

 男児は8日夕方から42度の高熱やせきなどの症状を訴え、9日午前に釧路市内の病院に入院。肺炎の症状も示し、簡易検査でインフルエンザA型陽性と判定された。夕方から血圧低下など容体が悪化し、集中治療室で治療を受けリレンザも処方されたが、午後9時30分ごろ、全身の血管から出血が止まらなくなる播種(はしゅ)性血管内凝固症候群で死亡した。
というようなニュースが流れています。

ウクライナでは薬局で抗生物質などが簡単に買えるそうです。薬害なんでしょうか???それとも悪性のインフルエンザに変化したのでしょうか???気になるところです。

タミフルの薬害のことも気になっていました。新聞で見たインフルエンザの死者の中にはタミフルを服用している人が多いからです。

それから新型インフルエンザワクチンの死者も…『ワクチンはいりません』というブログによると死者が現在26人になっていました。(ワクチン接種後1~2日の死者も含まれているからだと思います。)

こちらの日記お気に入りに入れさせてもらいました。過去の記事もたくさん読ませてもらおうと思っています。

薬害については私の周りの人たちに少しずつでも知ってもらおうと思っています。

それからエボラ出血熱のような、高熱と鼻出血が伴う病気が世の中にはたくさんあるので、その情報もこれから集めようと思っているところです。

投稿: まみりん | 2009年12月 2日 (水) 10時28分

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